たばこ渡来記 Tabacco Toraiki
Bibliographic Details
- Title
- Tabacco Toraiki / たばこ渡来記
- Author
- Sumio Kawakami / 川上澄生
- Images
- 10 hand-colored woodblock prints / 手彩色木版画10図(タイトル含む)
- Publisher
- Boccaccio Private Press / 朴花居蔵版(私家版)
- Year
- 1943 / 昭和18年
- Size
- h237× w162 × d17
- Pages
- 10 pages
- Binding
- Detcho-so / 粘葉装
- Printing
- Hand-colored wood type / 手彩色木活字本
- Materials
- Japanese paper with shipping carton / 和紙、拵帙
- Edition
- Limited 50 copies / 限定50部
- Condition
- Fine
グレートスモーカーな
愛煙家紳士淑女に
贈りたい一冊。
川上澄夫とは何者だったのか。
昼は英語教師、夜は版画家。
はじめに、詩人だった。
生涯にわたり詩壇とも画壇とも距離を置いた。
南蛮渡来と文明開化を、故郷とした。
本をつくることにこだわった。
いたって平凡にみえる暮らしの人だった。
作者の川上澄生は明治28年に横浜で生まれました。お父さんは、横浜で貿易新聞社の主筆を務めたり、アメリカに渡って農地開墾に取り組んだり、外の世界に目を向けたかなりハイカラな紳士でした。3歳か4歳の頃に東京に引っ越し、下町を転々と移ったのち、青山師範の付属小学校を経て、青山学院の中等科に入学。同級に、合田弘一さんがいて、彼のお父さんが、小口木版技術をフランスから日本に持ち帰った合田清でした。この知遇を得たことと、木下杢太郎の『和泉屋染物店』の口絵で安土桃山時代の南蛮人の風俗木版刷りを見たことが、版画家川上澄生の誕生につながります。
多くの画家や詩人が巣立っていった「投稿雑誌」に自作の詩やコマ絵を投稿しまくった青年期を経て、青山学院の高等科を卒業した頃に転機がおとずれます。大好きだった母を亡くすと同時に、はじめての失恋も経験することになります。やぶれかぶれになった澄夫は、父から「カナダに行く気はないか」と声をかけられ、22歳にしてカナダ・ヴィクトリアへと単身渡航します。名目は父がやり残した農地開墾事業の後片付けでしたが、実際には何のあてもない渡航でした。シアトル、アラスカと旅をつづけているうちに、弟が病気にかかったと報せをうけ(帰国する前に亡くなる)、日本に戻ってきます。およそ一年足らずの放浪でした。
帰国後も定職には着かずに、さまざまな仕事を転々としていましたが、26歳のときに、旧制中学校の英語教師の職を得て、栃木県宇都宮に赴任します。それからというもの、昼は学校で生徒たちに英語と野球をおしえ、夜は詩作や版画に時間をあてました。自身のことを「なまけもの」と自嘲しながらも、教員としての生活をまっとうしつつ、寸暇を惜しんで木版画の制作にはげむ、その生活をその後50年にわたり、続けることになります。
我はかつて詩人たりしか
ひそやかに今も尚 我は詩人なりと思へるなり
詩人は常に文字以て詩を書かざるべからざるか
我は今 詩情を絵画に託す
あな哀れ わが詩情は詩とならずして絵画となるなり
詩集『我が詩篇』序
1956年(昭和31)
同時代を生きた柳宗悦は雑誌『工藝』でこのように述べています。「私はいつも想い出したように、川上君の絵本や版画を、書棚や引き出しから出して眺めるのです。それは私に楽しむ世界を与えてくれるからです。雑事の多い私は、川上君のお蔭でしばしば時間を忘れる恩恵に浴しているのです。見ていると楽しさや親しさや面白さが静かに私に近づいて来るのです。時としては微笑まずにはいられません。私は一緒になってその絵本と遊ぶことができるのです。美には色々の面があるでしょうが、こういう境地を示すものがあるのは有り難いと思います。私は川上君の作で、人生へのある見方を教えられるのです」と。
また、棟方志功は<川上澄生特集>を組んだ『工藝』(1939年5月号)で、こうも述べています。「川上澄生氏の版画を通じての私の版画は、幾度となく、その形態を変え、何時となく動き、騒ぎ、身の程を知らずな時と版画とに、今までを来ました。川上澄夫氏から受くる恩義は、如何に深くして底多いものか言葉に出来ません。」
棟方志功が川上澄生の「初夏の風」(1926年)に衝撃をうけて、自らの板画を見出したことは有名な話です。ゴッホに憧れて、油彩画家になるため青森から上京した棟方志功は、帝国美術展(現在の日展)への入選を夢見ていたけれど、落選してばかりで、思い悩んでいた。そんなある日、たまたま展覧会場で「初夏の風」と出会います。詩と版画が一体になった川上澄生の代表作を前に、「ああ、いいなァ、いいなァ」と心も体も伸びて行く気持ちを抑えることができなかった、といいます。直後に、棟方志功は版画に転向します。そして、日本の神話を語る言葉と版画を融合させた「大和し美し」(1936年)は美術界を激震させ、「大和し美し」によって柳宗悦や民藝運動の諸氏とも出会っていくことになります。
初夏の風(1926年)
川上澄生は、版画家である前に、詩人であり、ささやかな暮しの人でした。詩と版画のあいだに垣根はなく、詩画が渾然一体となった作風は、読む詩であって、見る詩でもありました。宇都宮に根をおろした川上澄生は、恩地孝四郎らと自画自刻自摺の「創作版画」を提唱し、学生をまじえて同人誌のようなリトルプレスを発行したり、自身のプライベートプレスから限定十数部の私家版を発表していくなど、独自の版画による私家本の世界を深めていきます。最後は「本」にすることに、誰よりも強くこだわる版画家でした。
題材やモチーフには、懐中時計やランプ、地球儀や標本、南蛮船や古地図など、南蛮渡来と文明開化の薫りがただよい、異国への驚異と好奇心は生涯にわたって続いていきます。のちに、自らの独特な画風をふりかえって、そこには世界を見渡しても日本人だけが持っているヘンテコな風景が影響している、と述懐しています。例えば、山高帽子に紋付袴で靴をはく日本人、人力車を走らせる礼装の軍人、戦場に十字架の旗印をひるがえす切支丹武士。日本人が古来から外国の文化を取り込みながら、じつに自然と日本化させてきたことを「不協和音的和音」があったとして、そのちぐはぐな風俗をちっとも変だと思わない日本を懐かしくさえ思っていました。川上澄生にとっては、南蛮調の風景の中に「僕の故郷かもしれない」日本があったのです。
で、この『タバコ渡来記』はというと、1943年(昭和18年)秋に自身のプライベート出版社「朴花居」で限定50部だけ発表した極めて珍しい私家本です。木版画本としては、生涯で77冊を制作したうちの、21冊目として知られています。「朴花居」は、宇都宮の鶴田駅前に構えた自宅兼アトリエの名前に由来します。自宅の庭に朴の木を植え、イタリアの詩人ボッカチオにあやかり自宅を朴花居(ぼっかきょ)と名付けました。
ところで、この私家本を拵えた1943年の秋といえば、第二次世界大戦の戦況がいよいよ悪化していった頃のことです。先の東京オリンピックのメインスタジアムにもなった新国立競技場の前身である「明治神宮外苑競技場」では「学徒出陣壮行会」が開かれ、13万人もの学生たちが学徒出陣として戦場へかりだされた、けたたましく暗い秋のことです。
当時、敵対国である英語の使用を「敵性語」として禁じる風潮は強くなっていました。新聞メディアも「看板から英米色を抹殺しよう」などと煽って、米国、英国由来のものを徹底的に排除しようとした。川上澄生が宇都宮中学校で指導にあたっていた「野球」も例外ではありません。世間やお国から「野球そのもの」が禁止されるのを免れるために、1943年春には野球用語の言い換えが発令されました。1890年頃に正岡子規が翻訳した「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」などの一連の和訳はすでにありましたが、その調子で和訳を徹底せよ、ということになった。ストライクは「よし1本」、ストライク ツーは「よし2本」、ファウルは「だめ」もしくは「圏外」、アウトは「ひけ」もしくは「無為」などと、超訳された。なんとも急な言い換え指令だったので、直後の試合で審判が「ストライク……もとい、よし1本」と言い間違え、観客を笑わせる一幕もあったといいます。
とにかく、そんなたいへんな戦時下に、限定本とはいえ西洋由来の「タバコ」を題材にした南蛮調の手製本を刊行したわけです。タバコ(煙草)は、カステラ(卵糖)、カッパ(合羽)、ジュバン(襦袢)、メリヤス(莫大小・目利安)、ビロード(天鵞絨)、ボタン(釦)、カルサン(たっつけ袴)などと同じ舶来品で、ポルトガル語として日本に入って、じょじょに日本語化していったものです。米英ものを中心に外国由来のものを徹底的に排除して純粋に日本だけのナショナリズムを高揚させるべし、という風潮が吹き荒れる世間に対して、外国文化をとり入れてきた「不協和音的和音」こそが日本ではなかったのか、そこにしか自分が帰るべき日本はない、と静かに反抗する詩人の姿を感じざる得ません。
Text by 櫛田 理
【参考書籍】
・川上澄生『川上澄生全集』中央公論社(1979年)
・小林利延『評伝川上澄生』下野新聞社(2004年)
・図録『古今東西をあそぶ 川上澄生 木版画の世界』世田谷美術館(2010年)
・図録『川上澄生と宇都宮中学校 へっぽこ先生のまなざし』鹿沼市立川上澄生美術館(2011年)
・図録『棟方志功と川上澄生』鹿沼市立川上澄生美術館(1998年)